流行の最先端
流行はどこからやってくるのかと考えたことはありますか?
今年のトレンドは何色という話がありますが、メディアはメディアで媒体を売りたいわけですし、メーカーやディーラーは計画的陳腐化を起こすためコロコロ流れを変えたがります。
そこがタッグを組めばメディア側からの「今年は?」「今年は!?」というインタビューが当然あり、流行を意図的に作る人と それを報じる人が力を合わせることは当然です。
雑誌は売れ、テレビは視聴率が上がり、物は売れ、買い替えを検討する人が増えるという流れは、メディアと企業の互いにとってwin‐winであるため、この風潮は経済を動かす常として止まることはありません。
車は顔が大きくなっていきます。
トヨタ・レクサス・アウディは年々、フロントフェイスが大きくなり存在感を主張する傾向にあり、またフロントグリルはクラウンも、マツダも「あみあみグリル」になってきました。
ファッションは太めのボトムが3~4回目のリバイバルを起こし、ブランドバッグよりもトートバッグの時代に。
ではメディアは誰にインタビューをしに行くのでしょうか?
それは社会的・経済的に大きな力を持っている大手企業です。
そして流行とは経済学と社会学と心理学の組み合わせによって生まれます。
スポーツメーカーではアディダス、ナイキ、プーマ、アンダーアーマーなどが こぞってスニーカーを発売しています。
しかし、スニーカーの火付け役は数十年も前に某ファッションブランドなどが発表したという説もありますから、ファッションブランドがスニーカーを流行らせ、NewBalanceが「ダサカッコいい」を有りにし、今では「何でも有り」の時代になっていったのです。
リーボック、パトリック、アドミラル、ロット、ルコック、そしてまさかのチャンピョンが流行るだなんて10年前は流石に予想をしていませんでした。
ノースフェイスも大学生の頃に購入したバッグを見た妻は「それは絶対にダサい」と言っていた当時も、今では旅行の際などに使っています。
「何でも有り」の時代に突入した背景には、まず飽和状態を長らく経験したからでしょう。
新たに出てきたモノであっても、AとBの掛合わせ程度の製品やサービスばかりで、新たなモノを創造することは難しくなってきているという理由が挙げられます。
出尽くしたんですね。
そして忘れてはいけないのが、ネットの普及です。
国策や経済発展のために仕向けていたルールに対する反論や是非、そして真実や本質が様々なソーシャルメディアによって拡散され、とうとう統制が取れなくなってきました。
アダルトコンテンツ以外は大抵You-tubeにアップできます。
こうして成り立った一種の「自由」を知ってしまった以上、もう私たちは檻を突き破って出た猛獣のように(他者と未来の環境に配慮しつつも)自分らしい人生を楽しく描くのみとなったのです。
先ほどの「流行」というテーマは資本主義経済にとっては当然の流れであり、大手企業の動きやブームに乗っかり「それを販売すれば自社も御利益がある」と考える全国の企業が販売促進のために取る手段とも言えます。
「流行る」の前には「売れる予感がする」という企業側の思惑が必ずあるということですね。
ヨガが流行っているからヨガが行える施設を作り、指導者を配置し、クラスを運営する。
ブームとはお金という欲の塊から発生し、その欲が全世界に拡散していると言っても間違えではありません。
本日のブログの中で考えるべきポイントは3つ。
①「何でも有り」となったことは社会の調和を乱しても良いという意味ではなく、個人の精神的な負担を軽減する要素として捉え、また成功者(自己実現者=やりたいことをやる人生)になるための早期教育概念として捉えるべきということ。
②「流行」とは全く異なる概念と価値判断によって、上記の①を踏まえ、個人の生き方を他者の生き方とは別であり唯一無二の存在として捉えるべきということ。
③アイテムやマテリアルで他者との差別化をはかる現代人は、マインドにこそ差別化、もしくは差異化が生じても違和感を持たないことこそが重要であるということ。
マイブームは人生に抑揚をつけてくれる大切な存在ですが、それとは別にセオリー(理論)やフィロソフィー(哲学)をバランスよく持っていたいものですね。
幸あれ、愉快であれ!
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